向かって右側の階段が八幡神社、左側が松月院大堂へとつづく。



~八幡神社~
御祭神品蛇別命(ほんだわけのみこと)。
創建年代は不詳であるが、当社は隣接する大堂の守護神として創建されたといわれ、古墳の上に建てられている。歴応3(1340)年に鋳造された大堂の梵鐘の銘文によると、大堂は建武(1334~38)の頃隆盛であったことが明らかであるから、当社もこの頃にはすでに創建されていたものと思われる。御神体として木造の騎上八幡像が安置されていたと伝えられている。江戸時代には下赤塚村の一部の鎮守であった。
神社の後方にある欅の大木(現在は株のみ)は、800年以上を経過したものと考えられる。
平成6年3月
板橋区教育委員会

~大堂~
本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ約90㎝の木造で平安時代後期の作と思われる立派な尊像である。
また、堂前の梵鐘は歴應3(1340)年の鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長寺四十二世中岩(円月)の撰文の鐘銘により名鐘として誉れ高く、古来文人墨客の杖をひくところとなった。
鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二の脇坊を備えた大寺であった大堂も、永禄4(1561)年上杉謙信による小田原攻めのとき兵火にかかったと伝えられ、いまはまずかに本尊と梵鐘に往時の面影をしのぶにすぎない。
平成5年2月
板橋区教育委員会

~松月院大堂(しょうげついんたいどう)~
東京都指定旧跡
所在地 板橋区赤塚六丁目四〇番七号
指定 大正十四年十五月
この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡挟田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂のことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南北朝時代の建武・延元の頃(1334~40)は七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄4年(1561)3月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇悉く焼き討ちにあって焼失したといわれている。
文化11年(1814)2月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は座像の弥陀、御長弐尺四五寸ばかりと覚ゆ」と紀行文「遊歴雑記」に書いている。
東側の八幡社は、江戸時代から下赤塚村の鎮守社で、明治初年の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられている。
南北朝時代の暦応3年(1340)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作といわれる本尊阿弥陀如来坐像は共に有名で、江戸市中からの参詣客が絶えなかったといわれている。
平成13年3月31日 設置
東京都教育委員会
撮影日 2011/01/26


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