赤塚4丁目にある氷川神社。
氷川神社参道の入り口はこちらから。

参道入口すぐの脇にある石碑。

参道のスタイルとして珍しく、両脇に柵がなく横切り自由な感じとなっている。

参道の由来の案内板

参道内にある切り株。根っこの部分は1メートル以上。

神社境内入り口。

神社敷地内にある富士塚。

富士塚の案内板。

神社本殿とその他施設。

氷川神社の案内板。

撮影日 2016/08/31
~「氷川神社の参道並木」の案内板より~
氷川神社は、かつて多くの樹木からなる社叢(しゃそう)に囲まれていました。
大正7年(1918年)発行の「北豊島郡誌」は、
「槻(つき)及び杉の大木矗々(ちくちく)として梢(こずえ)を列(つら)ぬ」と当時の氷川神社を記しています。
昭和33年(1958年)から始まった、区画整理にともなう周辺の宅地化や、
昭和52年の社殿改築によって、その光景は大きく変わりましたが、
参道並木は今もなお昔の面影を残しています。
現在、参道と境内にある樹木のうち、比較的大きなニ・三本が、板橋区の保存樹木に指定されています。
また、参道入口の飛び地にあるケヤキは、幕末から明治期にかけて活躍した落語家三遊亭円朝の、
「怪談乳房榎」のモデルの一つといわれています。
氷川神社の参道並木は、古くから地域の人々に親しまれ、
武蔵野の面影をしのばせる参道並木として、
平成6年度に板橋区の文化財(天然記念物)に登録しました。
平成16年3月 板橋区教育委員会
~「赤塚氷川神社富士塚」の案内板より~
富士塚は、一般的には、富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、
富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、
富士講が爆発的に広がった18世紀以降に、各地で盛んに造られました。
富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、
それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を表現していることや、
「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。
なお、他地域の富士塚では毎年7月1日前後の富士山の山開きに合わせて祭礼が行われている所があります。
また、富士塚への登山行為自体が富士山登拝と同様の御利益があるといわれています。
とう富士塚を造成したのは、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門(行名 蓉行芙厚)が開いた「丸吉講」です。
当地(旧上赤塚村)へとその丸吉講が伝播した時期については、
丸吉上成(上赤塚・成増)講に伝わる御三幅の「御身抜」に、
「天保6年、蓉行芙厚、七拾七年、書之」という墨書銘が確認されていることから、
天保6年(1835年)頃と考えられます。
なお、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」に奉納された、
明治5年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「上赤塚仙元 富士山」と表記されていることから、
それ以前の造成と考えられます。
また、塚上に慶応4年(1868年)に白子丸瀧講(現在の和光市)の先達を務めた富澤藤七が造立した「登山三十三度大願成就」の碑があり、
造成時期はさらにさかのぼる可能性も考えられます。平成23年度に区の登録記念物(史跡)となりました。
平成25年3月 板橋区教育委員会
~「氷川神社」の案内板より~
御祭神は素戔嗚命、藤原広継命。
長禄元年(1457年)に赤塚城主千葉介胤が武蔵一宮氷川神社から御分霊を勧請したといわれています。
御霊神社の由来については不詳です。
明治2年(1869年)の社寺取調下案には、延宝2年(1674年)の検地帳に当社が記載されているとあり、
延宝2年以前から鎮座していたことがわかります。
文政11年(1828年)成立の「新編武蔵風土記稿」には「上赤塚村 氷川御霊合社 村の鎮守なり 清涼寺持」とあって、
江戸時代には清凉寺が別当として社務にあたり、
旧上赤塚村の鎮守として村民から崇敬を集めていたことが記されています。
安政4年(1857年)正月に、本殿が再建され、
さらに明治14年8月には拝殿が新築されるなど、
幕末から明治時代にかけて神社として整備が行われています。
なお、拝殿が新築された際には、それを記念して祭礼(奉祝祭)が斎行されましたが、
その時の様子を描いた絵馬が明治16年に村民から奉納されました。
この祭礼図絵馬を始め、当社所蔵の絵馬・扁額は平成22年度に板橋区の登録有形民俗文化財となりました。
平成23年8月 板橋区教育委員会


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